等々力競技場のまわりを散歩していた。2015年に完了した、メインスタンド増築工事の結果、近代的な外観へと変化した光景を、見てみたかったからだ
1997年のチーム発足以来、川崎フロンターレのホームスタジアムとして活用されていた。フロンターレは1997年のチーム発足以来、等々力競技場をホームタウンとし、2016年現在リーグ5位の観客動員数を誇る人気チームだ。
J1にすっかり定着し、優勝争いを繰り広げるようになると、等々力競技場は満員の観客で溢れかえり、トイレの混雑やバックスタンドに売店がない、などの問題点が際立つようになる。2013年からメインスタンドを改築し、観客収容人数は2万7千人となった。改築が完了した2015年、2016年と平均観客動員数は大きく伸び、2016年シーズンはチーム自体好調で、初のタイトル獲得の期待がかかっている。
筆者が初めて等々力競技場でフロンターレの試合を見たのは、2009年のことだった。今でもハッキリ覚えている。第33節の新潟アルビレックス戦だ。
このシーズンはフロンターレは好調で、首位をひた走っていた。しかし、前節の第32節では、J2降格が確定している大分トリニータを相手にまさかの敗戦。首位転落となった。
絶対に負けられない一戦を、ホーム等々力競技場で新潟を迎え撃った。新潟も手強い相手で、川崎自慢の3トップが、なかなか機能しない。
その状況下で、一際輝いていた選手が中村憲剛だった。
憲剛がロングパスを出すと、まるで時が止まったかのように、ボールが美しい放物線を描き、味方フォワードの足元にピタリと収まる。同じ物理法則が働く空間とは思えない軌道は、今思い返しても鳥肌が立つくらい芸術的だった。
サッカーのことをあまりよく知らない筆者でも、一目でこの選手は格が違う、ということが伝わる美しいパスだった。
中村憲剛は2003年、チームに入団した。当時はJ2だったチームのJ1昇格の原動力となり、以来不動のレギュラーとしてフロンターレ一筋でプレーしている。日本代表にも度々選出され、2010年30歳のシーズンには南アフリカW杯にも出場した。
2013年シーズン、33歳になった中村憲剛は衰えるどころか、プレーに円熟味を増し、3年連続得点王に輝く大久保嘉人との絶妙なコンビネーションを発揮していた。
にもかかわらず、日本代表からは落選してしまう。この時『今は中村史上で一番良いから』という名言を残し、一人のサッカー好きとして最高のパフォーマンスを発揮し続けていることに喜びを感じたいたようだった。
36歳となった現在でも、フロンターレに欠かせないキープレイヤーであり、チーム初のタイトル獲得に向け、熱戦を繰り広げている。
生え抜きの選手には特別な感情が生まれる
中村憲剛は14年間フロンターレ一筋でプレーしている。選手寿命が短く、移籍も活発なサッカー界において、10年以上に渡って同じチームで活躍している選手は珍しいと言える。
サイクルロードレース界に置き換えて考えると、10年以上同じチームで活躍している選手はほとんどいないだろう。まず、10年以上チームが存続することが難しい世界でもあるし、下位カテゴリーのチームと上位カテゴリーのチームとでは、J1とJ2とは比べ物にならない壁が存在することも確かである。
ワールドチームは出場義務が課せられたレースの種類、数、世界中に散らばる開催地の都合上、下位カテゴリーのコンチネンタルチームやプロコンチネンタルチームよりも多くの予算を必要とする。
さらにワールドチームのライセンスを取得するためには、ワールドツアーレースでUCIポイントを稼ぐ必要がある。つまり、ワールドツアーレベルの選手の確保が必要不可欠だ。したがって、ワールドチームに昇格するためには大型補強を行うことが多い。
ボーラ・ハンスグローエも、大型補強を通じてワールドチーム昇格を狙うチームの一つである。元々はチーム・ネットアップというコンチネンタルチームとして、2010年にたった12名のチームからスタートした。
今やボーラ・ハンスグローエは27名の選手を抱える大所帯である。
2010年にたった12名の選手のなかで、現在もボーラ・ハンスグローエに在籍している選手が3名もいる。
ヤン・バルタ、チェーザレ・ベネデッティ、ミハエル・シュワルツマンの3名だ。当時は、それぞれ26歳、23歳、19歳だった。
チームの躍進を陰で支えた功労者たち
この3人の中で、最も実績を残しているのはヤン・バルタである。
2016年ツールでは、第1ステージでファーストアタックを決めた選手の一人で、第6ステージでは新城幸也と共に逃げ、ユキヤの敢闘賞獲得に間接的に貢献した選手として、馴染みある選手だ。
脚質はオールラウンダーで、チェコ国内ロード選手権の個人TTを4連覇したこともあるTT力が高い。グランツールも出場5回全て完走し、2015年ツールは総合25位で完走している。
ヤン・バルタはチーム・ネットアップの初期メンバーではあるが、2009年以前も他のチームで走っていた。2006年にオーストリアのプロコンチネンタルチームでプロデビューを果たし、2010年にチーム・ネットアップに移籍してきた。
2012年から国内ロードTT選手権4連覇を果たすなど、オールラウンダーとして才能を開花させ今に至る。
チェーザレ・ベネデッティは、イタリアの有望若手選手としてリクイガス(現キャノンデール・ドラパック)の下部組織で育った。2009年中にトップチームに昇格すると、翌年からチーム・ネットアップへと移籍した。
ベネデッティで最も印象に残っているシーンは、グランツールでの逃げである。2016年ツールでは第2・14ステージで、ブエルタでは第2・4・11・13ステージで逃げに乗った。
ボーラ・アルゴン18の狙いはハッキリしていて、とにかく逃げに選手を乗せて露出を狙っていることは明らかだった。その中で、ひたすらアタックして、2度のグランツールで6回も逃げに乗ったベネデッティのアタッカーとしての才能は際立っていたと言える。
これだけ果敢なアタックを繰り返してはいるものの、ベネデッティはプロのキャリアでは、未だ勝利経験がない。しかし、2016年のティレーノ~アドリアティコでは山岳賞を獲得している。2016年はとにかく逃げまくった1年だっただろう。
ミハエル・シュワルツマンは、ボーラ・ハンスグローエの登録国であるドイツ出身の選手だ。
2016年はシュワルツマンにとって飛躍の1年となった。5月のツール・ド・アゼルバイジャン第5ステージで、集団スプリントを制してプロ初勝利をあげた。
レース後のインタビューでは、自身プロ初勝利にもかかわらず、『チームとして2回勝てたのが良かった』などと淡々と答えている様子が非常に印象的だった。
そして、初のグランツール出場となったブエルタでは、第2ステージに2位に入り込む走りを見せ、しっかりと完走を果たす。ワールドツアーレベルでも走れることを証明したのだった。
ボーラ・ハンスグローエが大型補強を進めるなかで、ボーラ・アルゴン18時代の選手の多くは契約延長が叶わなかった。
バルタ、ベネデッティ、シュワルツマンは、ワールドチーム昇格を目指すチーム内での、契約争いを勝ち抜き、2010年のチーム発足以来、ボーラの生え抜き選手として2017年も走ることが確定している。
3人はコンチネンタルチームの時代から走り続け、ついにワールドツアーの舞台にたどり着いた。
J3からJ2に昇格し、またJ2からJ1に昇格するようなものであるが、Jリーグのディビジョンとは比べ物にならない高い壁が、ワールドツアーとプロコンやコンチネンタルとの間にはある。快挙であり、ボーラ・ハンスグローエが生え抜きを大切にするチームだと思うと、とても好感が持てる。
だが、恩情契約ではなく、バルタもベネデッティもシュワルツマンも、ワールドツアーで走れることは2016年シーズンの走りが証明している。
2017年もバルタとベネデッティは多くの逃げに乗り、シュワルツマンはキレのあるスプリントを見せてくれるだろう。ボーラ・ハンスグローエ発足当初からの生え抜き三銃士には、注目していきたい。
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