サイバナ

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コラム ツール・ド・フランス2018

それでもクリス・フルームが偉大なチャンピオンである理由とは?

「プロに必要なものは、体力とか才能ではなく、histoire(イストワール)だ」

ツール・ド・フランスを描いた小説「スティグマータ(近藤史恵著)」でのワンシーンで語られる言葉である。

イストワールとはフランス語で「歴史」もしくは「物語」を意味する単語だ。

「俺たちは、所詮、観客に娯楽を提供する身だ。ならば、美しい歴史や物語を抱えている方が有利」と作中の人物は語る。

プロスポーツとはとどのつまりエンターテイメントである。「スプリントで時速60kmを出した」といっても、それだけでは世界中の観客を惹きつけることはできない。「トレーニング中の事故で大怪我を負い、事故以前のパフォーマンスがなかなか取り戻せなかった男が時速60kmのスプリントで勝利した」という歴史・物語、すなわちイストワールに惹きつけられるからこそ、人々はプロスポーツ観戦に熱狂するのだろう。

現役プロサイクリストで、最も世界から注目を浴びている選手はクリス・フルームだろう。

彼の持つイストワールとは「ケニア出身の無名レーサーがブエルタ・ア・エスパーニャで総合2位に。翌年のツールでは絶対的エースと対立。絶対的エースを追いやるようにしてエースの座についた男はツール4勝を飾り、前人未到のツール・ブエルタの連覇を果たす。しかし、エースの薬物問題を契機にチームもろとも批判を浴びせ続けられるなか、常に自身はクリーンであることを証しつづけてきた男の血液サンプルから基準値超過が検出される。かつてないほどの逆風にさらされるなかで出場を決めたジロ・デ・イタリアでは、歴史的な80km独走勝利を決めて逆転で総合優勝を果たす。さらに基準値超過問題も無罪放免が決まり、満を持して出場したツールでは5勝クラブ入り&グランツール4連勝の大記録に挑む。」というものだった。一言でいえば「偉大なチャンピオンであり続ける」ということだろう。

絶対的王者としての振る舞い、特に紳士的な行為・発言の数々に加えて、彼のやわらかな笑顔に虜となったファンは数えきれないほどいることだろう。一方で、ブラッドリー・ウィギンスとの対立や所属チームであるチームスカイのダブルスタンダードと捉えかねない言動を見てきた人たちは、彼がどれだけ実績を積もうと批判的な立場を崩さなかったことだろう。

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思うにクリス・フルームという人物は、世界で最も好かれ、最も嫌われているプロサイクリストではないだろうか。

いずれにせよ、彼の持つイストワールに多くの人々がプラスの感情であれ、負の感情であれ惹きつけられていることは事実だろう。

そこに新たに付け加えられたイストワールは、「10年来の親友であるチームメイトとの総合争い」だった。

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両雄並び立たなかった過去

総合1位と2位がチームメイト同士、となると2012年ツールを思い出さずにはいられないだろう。ウィギンスとフルームの対立が表面化したレースだ。

もちろん当人たちは対立したくてしたわけではない。

フルームは前年のブエルタで総合2位となったことで、自信を深めていた。ツールで総合を狙いたいという野心が大きく芽生え、オフシーズンには自分が総合エースとして走ることができるチームへの移籍も画策していた。

チームスカイとしても、ウィギンスがいるとはいえ、将来のエース候補を手放したくなかった。そこで、GMのデイブ・ブレイルスフォードはフルームに対して、「来年のツールで自分の総合成績を狙っていい」という約束を取り付け、フルームとの契約を結びつけた。

そうして、ツールに出場したフルームは勝負どころでアタックを仕掛けた。しかし、チームから「待て」との指示が出る。話が違うではないかとフルームは激怒し、ウィギンスに詰め寄ることもあったという。しかし、ウィギンス自身もまさかフルームが自分のために走っていいとチームと約束していたとは思いもよらず、困惑するばかりだった。

つまり、2人の対立の原因はフルームと曖昧な約束をしたGMのブレイルスフォードにあり、見方を変えればフルームもウィギンスも被害者だといえよう。

そのようなチーム内のいざこざが再び起こることは、フルームはもちろん、トーマスだって、ブレイルスフォードにしたって避けたいに決まっていた。

6年前の反省を生かして、当事者たちは話し合いをしっかりしたのではないだろうか。

「うちのエースはもちろんフルーム」と語るトーマスに、「チームスカイの選手が、パリの表彰台の頂点に立ちさえすれば私は幸せ」と答えるフルーム。両者の関係性に違和感はなく、お互いのコメントに一貫性が見られていた。

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やはり、フルームとトーマス、2人は10年来のチームメイトであり、お互いに気の置けない親友であり、オープンに話し合える関係性であることで、6年前のような険悪な事態には陥らずに済んだのだろう。

トーマスとフルームのどちらでもいい。チームとして総合優勝を飾ることに2人はフォーカスしていたからだ。

大記録よりチームの勝利を優先

ツール4連覇、5勝クラブ入り、グランツール4連勝という記録は誰にでも挑戦できるものではない。フルームがどれだけ凄まじい選手だったとしても、今後もう一度同じ記録に挑む機会が訪れることはないだろう。

千載一遇の好機に、自分の記録達成を優先させたいという思いの一つが芽生えても全く不思議ではない。だが、フルームはそうしなかった。

第17ステージ、65kmのショート山岳ステージの最大の勝負どころである超級山岳サンラリースランの上り区間、フルームはトーマスに対して「今日は調子が悪い」と耳打ちしたという。

フルームは自分は集団から脱落し、タイムを失う可能性があることをトーマスに伝えたのだ。これまでのフルームとトーマスの関係、つまりエースと山岳アシストの関係であれば、自分が遅れないように、仮に遅れたとしてもタイムロスを最小限に留められるようにペースを調整してアシストしてくれ、というメッセージになるだろう。

だが、2人のどちらかで総合優勝を狙う、という認識の下ではフルームの言葉の意味するところはただ一つ。「マイヨジョーヌは君に任せた」となる。

この瞬間に、フルームのツール4連覇、グランツール4連勝の記録は事実上途絶えた。ジロのように、残りのステージで逆転を狙うチャンスはあったというのに、フルームはその道を選択することはなかった。

それはトーマスと、チームと話し合った結果だからやむを得ないだろう。というレベルの話ではない。フルームほどの実績を持つ選手ならば、話し合った結果、自分をアシストしろと命じることもできたはずだし、トーマスだって最初はそのつもりだっただろう。

それでもフルームはそうしなかった。このステージでフルームを逆転し、総合2位に浮上するトム・デュムランの存在も理由の一つだろう。デュムランを抑えて逆転勝利を狙うことと、デュムランに対して2分近いアドバンテージを持つトーマスが総合優勝を狙うのだとしたら、後者の方がリスクが少ないことは明らか。フルームはあくまでチームの勝利のために、極めて合理的な判断をしたまでだが、それが本当に凄いことだ。

何度でもいうが、ツール4連覇、グランツール4連勝は誰にでも狙える記録ではない。それだけの記録を前にしたら、普通は最後の最後の瞬間まで逆転を狙いたいと思う。挑戦を諦め、後悔したくない気持ちの方が強くなるものではないだろうか。

全ての事情を考慮して、「今回は自分に力が足りなかった。トーマスが総合を獲るべき」と判断できるフルームの人間性の深さには、心からの尊敬の念を抱かされる。

第19ステージでは、アタックを仕掛けたプリモシュ・ログリッチェに対してフルーム自らトーマスを牽く場面も見られた。6年ぶりのアシストを見せたフルームの表情は、心なしか晴れやかに見えた。

◇         ◇

第20ステージ、トーマスは総合優勝を決めた。

フィニッシュ後にフルームは真っ先にトーマスの元に駆け寄り、笑顔で抱きしめていた。

翌日、最終ステージでは好例のパレードラン。シャンパンで乾杯するなか、フルームはトーマスのグラスを受け取ると、「早くみんなのところに行ってこい」と言わんばかりのジェスチャーを見せていた。

それはマイヨジョーヌを着るエースのための、忠実なアシストの姿そのものだった。

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実のところ本心はどう思っているのかなど、本当にどうでもいいことである。大事なことは何をしたかだ。

第17ステージ、「今日は調子が悪い」と伝えたその時から、フルームはトーマスの忠実なアシストを全うしたのだ。グランツール通算6回総合優勝の偉大なチャンピオンにもかかわらずに。

来年のツールは5勝クラブ入りの再挑戦をすることだろう。もちろん、トーマスもツール2連覇をかけて出場するだろう。

しかし、2人はライバルではない。チームメイトにして親友だ。真のダブルエースとして、チームスカイのツール5連覇を狙うのだ。

「偉大なチャンピオンであり続ける」フルームのイストワールはこれからもつづく。

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