パリ〜ニースの主役は、今年もアルベルト・コンタドールだった。
セルジオルイス・エナオからわずか2秒遅れの総合2位となったが、
昨年もゲラント・トーマスに4秒遅れの総合2位だった。
最終ステージは2年連続で逆転優勝を狙うコンタドールが積極的に仕掛けていく展開となった。
コンタドールのあらゆる手段を尽くして勝利を目指す姿勢は、サイクルロードレースというエンターテイメント性をよりいっそう引き立ててくれる。
昨年のブエルタ・ア・エスパーニャで見せてくれた走りも、至高のエンターテイメントと言える見事なものだった。
たとえ、勝利に繋がらなかったとしても、絵になる男である。
だが、今回はコンタドールではなく、そして終盤まで視聴者を撹乱し続ける走りを見せたもう一人の立役者であるダビド・デラクルスでもなく、
総合優勝したセルジオ・エナオを称える記事を書こうと思う。
セルジオ・エナオのこれまでのサイクルロードレース人生は、決して華やかなものではなかった。
むしろ、挫折と絶望をともなう苦難の道のりだったと言えよう。
ステージレーサーとして順調なキャリアを送る
キャリア初期は、母国コロンビアに拠点を置き、北中南米地域で行われるレース中心に出場していた。
2010年は、コンチネンタルチームにも所属せず、アマチュアとして出場したブエルタ・ア・コロンビアで総合優勝を果たした。
2011年は、ツアー・オブ・ユタにて、ワールドチームの選手たちと拮抗した戦いを見せ、総合優勝のリーヴァイ・ライプハイマーから23秒遅れの総合2位でフィニッシュした。
この走りが、チームスカイの首脳陣の目に止まったことにより、ヨーロッパへの道が開けた。
チームスカイ移籍初年度は、ジロ・デ・イタリアで総合9位となり、新人賞ランキングでも2位に入る活躍を見せた。
なお、この時のマリア・ビアンカは同郷にしてチームメイトのリゴベルト・ウランだった。
以降、セルジオ・エナオはステージレーサーとして多くのレースを転戦していく。
最初に訪れた絶望
チームスカイは全盛期を迎えようとしていた。
2012年はブラッドリー・ウィギンスが、2013年はクリス・フルームがツール・ド・フランスを制した。
チームスカイ移籍3年目の2014年、セルジオ・エナオはツール・ド・フランスへ初めて出場することが決まった。
フルームをサポートする山岳アシストの一員として、いよいよツールデビューを飾る、予定だった。
同年3月、セルジオ・エナオのドーピング検査の結果、血液の値に異常があることが判明した。
チームスカイは当面の間、レース出場を見合わせることにした。
ツールに向けてコンディションを上げていく重要な時期の出場停止は痛い。
しかし、チームスカイはセルジオ・エナオの無実潔白を示すために多大な努力をした。
結果、セルジオ・エナオの異常値の原因は、高地出身者の特性によるものである、と発表した。
酸素の薄いところで生まれ育ったことから、血中ヘモグロビン濃度といった酸素をより多く取り込むことが出来る数値が高く出てしまったのだろう。
決してドーピングによるものではないと、チームスカイは証明した。
ツール前哨戦となるツール・ド・スイスでレース復帰を果たし、ツール出場に向けて急ピッチで調整していくこととなる。
第3ステージで3位に入るなど、久々のレースとは思えない走りを見せていた。
しかし、第7ステージ、個人TTのコースの下見を行っていた際に悲劇が訪れる。
車と激突して、セルジオ・エナオは膝の骨を折る大怪我を負ってしまったのだ…。
長いリハビリ生活を経て、復帰した後にまたもや…
ツールへの出場は絶望的となった。
それどころか、再び自転車に乗ってレースを行うことさえ難しいかもしれないほどの重傷だ。
セルジオ・エナオは長い長いリハビリ生活を余儀なくされた。
レースに復帰することが出来たのは、2015年3月。
ツール・ド・スイスでの事故から、9ヶ月が経っていた。
復帰2戦目となった、ブエルタ・アル・パイス・バスコでは総合2位に輝き、セルジオ・エナオはヨーロッパのレースシーンで再び走れることを証した。
とはいえ、まだトップコンディションに戻す過程にあったため、同年のツールは出場を見送った。
レースを重ねるにつれ、セルジオ・エナオの調子がどんどん上向きになっていき、10月のイル・ロンバルディアでは9位に入る好走を見せシーズンを終えた。
翌2016年シーズン、初戦のツアー・ダウンアンダーは総合3位、コロンビア選手権2位と好調を維持したまま、パリ〜ニースへ参戦した。
第6ステージで2位に入ったチームメイトのゲラント・トーマスが総合首位に浮上すると、翌日の最終第7ステージではトーマスのアシストとして奮戦した。
15秒遅れの総合2位につける、ティンコフのアルベルト・コンタドールが波状攻撃を仕掛ける。
チームスカイはチーム力をもって対抗し、コンタドールの攻撃をすべて抑え込む。
最後の登りであるエズ峠で、コンタドールはがむしゃらにアタックを仕掛ける。
しかし、コンタドールの動きはすべてセルジオ・エナオがチェックして潰していた。
このままコンタドールの動きを押さえ込めばトーマスの総合優勝が確実なものになると思われたが、コンタドールの度重なるペースアップに、とうとうトーマスの脚が悲鳴を上げてしまった。
コンタドールからじわじわと遅れを取り始めてしまう。
セルジオ・エナオは、コンタドールをチェックして、ステージ優勝を狙うことも出来たが、トーマスをアシストすることを選択した。
登りで苦しむトーマスのために、前を牽いてペースを作る。
1分近いリードを築かれてしまったが、TTスペシャリストであるトーマスは下りと平坦路でタイム差を挽回する。
ラスト2kmを切ってもなお20秒程度のタイム差があったが、セルジオ・エナオが力を振り絞り全開の牽引を見せる。
ゴール前は、トーマスのいる集団から千切れてしまうほど力を尽くしたアシストが実り、トーマスは4秒差で総合優勝を飾ることが出来た。
「この優勝ジャージは、ぼくのものではなくセルジオ・エナオのものだ」
とは、レース後のトーマスのコメントである。
セルジオ・エナオの走りのキレ味は、完全に蘇っていた。
だが、サイクルロードレースの神様は再びセルジオ・エナオに試練を突きつける。
2016年4月、またもやセルジオ・エナオの血液の値に異常があるとして、今度はUCIがチームスカイとセルジオ・エナオに情報提供や数値に関する説明を求めた。
この影響で再び出場停止となってしまう。
当時はチームスカイへの風当たりが最も強くなっていた頃である。
2年前に全く同じ疑いに対して、完全に無実であると証明されたにも関わらず、再び追及される事態となった。
辛くて長いリハビリ期間を経て、ハードなトレーニングを積み重ねて、ようやくトップコンディションを取り戻した矢先の出来事である。
セルジオ・エナオの失望たるや、言葉で表せるものではない。
結局2ヶ月後の6月に、セルジオ・エナオの異常値は高地出身による特性によるものであるという、2年前と全く同じ結論に至り、ツール前哨戦のクリテリウム・ドゥ・ドーフィネでレース復帰した。
そして、ようやく念願のツール初出場を果たした。
山岳アシストとして、フルームのツール2連覇に大いに貢献する活躍を見せていた。。
さらにツールの後は、セルジオ・エナオにとって非常に大きな目標であるリオ五輪が控えていた。
メダル獲得が期待されたレースで、三度目の試練
クライマー向きのコースレイアウトはセルジオ・エナオの脚質に合っていた。
レース最終盤、ラファル・マイカ、ヴィンチェンツォ・ニーバリと共に集団から飛び出すことに成功した。
最後の登りを終え、あとはダウンヒルをこなして、平坦路を逃げ切るだけだった。
強力な3名の逃げ切りがほとんど決まったかと思われた矢先に、またしてもセルジオ・エナオの身に悲劇が訪れる。
ダウンヒルの途中で、ニーバリと共に落車して、鎖骨を折ってしまった。
無念の途中リタイアとなる。
ニーバリ、マイカとセルジオ・エナオの3名による逃げ切り、スプリント勝負となれば、セルジオ・エナオにも十分に勝機はあった。
金メダルだけでなく、銅メダルさえ逸したセルジオ・エナオの喪失感はさぞかし大きかっただろう。
レースの神様は、セルジオ・エナオにどれだけの試練を与えれば気が済むのだろうか。
苦難の連続を乗り越え、たどり着いた晴れ舞台
2017年シーズン開幕戦のツアー・ダウンアンダーでレース復帰を果たす。
同レースは総合12位に終わったが、2月のコロンビア選手権では初の優勝を果たしてコロンビアチャンピオンとなった。
そして、今回のパリ〜ニースへと至る。
パリ〜ニースでの勇姿は、周知の通りだ。
無実のドーピング疑惑、選手生命に関わる膝の粉砕骨折、2度目の出場停止、リオ五輪での落車リタイア…とセルジオ・エナオは苦難の連続の日々だった。
チームスカイに移籍してから、今日までにあげた勝利の数は今シーズンのコロンビア選手権とパリ〜ニース総合優勝を含めても、たったの5勝だ。
これほどの力を持つ選手だが、度重なる試練の影響もあり、本来の実力を発揮できずにいたのだ。
だが、これからは違う。
とうとうパリ〜ニース総合優勝というビッグタイトルを手にすることが出来たからだ。
度重なる苦難を乗り越えたセルジオ・エナオに対する、神様からの贈り物に違いない。
セルジオ・エナオのアシストとして貢献度は凄まじく高い。
しかし、アシスト選手は記録には残らない活躍が多くなる。
どれだけ素晴らしい走りをして鮮烈な印象を与えたとしても、後世の人々はセルジオ・エナオの活躍を記録から知ることは難しい。
だが、パリ〜ニースの歴代総合優勝者の一覧に”セルジオルイス・エナオ”の名は永遠に刻まれることになった。
人々の中のセルジオ・エナオの記憶が薄れたとしても、その名はリザルトに燦然と輝き続けることだろう。
彼はまた、アシスト選手としてチームスカイに尽くす日々が始まることだろう。
記録に残らない、名アシストを幾たびも我々に見せてくれるに違いない。
わたしは、彼の記録に残らない走りを、可能な限り文章にして残していきたいと思う。
セルジオ・エナオに限らず、アシスト選手全般に対する、個人的な思いでもある。
だが、今はただ称賛の声を贈りたい。
セルジオ・エナオ、本当におめでとう。
Rendez-Vous sur le vélo…